おセンチ拗らせてますから

こんばんは。もんです。

みなさま、ただ今うぇすてぃーびーの私的オーラスを終えましたことをここに記します。

それはそれは確かに、彼らは生きていて、そして私たちも生きているということを実感したオーラスでしたね。

 

そんなこんなで、今日はおセンチになっちゃってるので、おセンチな記事書きます(笑)

 

この間恋人の条件なんてことを書いたところなんだけれども。申し訳ないけれど、ここからは結婚とか恋愛とか仕事とかそんな感じの規模の大きな所謂人生の話しますね。

 

私ここ最近ふと思うことがありますねん。

 

「私ってどんな人なんだろう。」

 

はい、難題。

ここ最近はコンパにも行くことあるし、友達の友達とか会う場面はあるけれど。まあ男女問わずね。私ってどう見られているのだろうか。とふと思いはじめた。それはそれは私を支配している思いで、コンサートの時も思う。例えば万が一自担に認識されたとして、何やとおもてるんやろて思う。

他にも なんで? を追求してしまう癖みたいなのがあって、職業柄かもしれないけれど、なんでこの仕事しているのかとか、なんで私はここにいるんだとか。なんでなんでなんでって何度も思うことが続いている。

そんな時に、間違っちゃいないとかが下界に降りてきて、心を揺さぶるわけですよ。

 

ひとつずつ、なんでを解決していくために生きてるんじゃないかなあなんて重いこと思ったりして。だから個別性が出るわけで、人間性、性格、人格形成が成されるんじゃないかと思うわけです。

逃げ出したくなることもあるし、なんでこんなこと自分がしなきゃいけないんだとか、なんでこの人がこんなこと思わないといけないんだと思うこともある。そんな中でどうやって自分が自分で心の折り合いをつけていくのかを考えるのが人生ではないのかと思うわけです。

 

誰しも自分の居場所とか、評価を気にして生きるけれど、それってとても普通だと思うし、それを分かってお互い交わっているところはあると思うのよ。

だから、どうしようの繰り返しを何度も重ねて自分を作っていくことに一生懸命になろうかななんて、しげちゃんに教わったところ。

 

晴れた日の夜勤明けの帰り道はいつもそんなことを考えるし、犬の散歩してる夜の一人きりの道でも考える。だれしも花マルを望むけど、花マルつけるのは自分でいい。それに自分の心の許すひとにつけてもらえばいい。逆にいうと花マルをいつもつけてくれる人と一緒にいればいい。

 

そんなことを思うわけです。

生きることなんて難しいのに、みんなよく間違わずに生きてんね、間違っちゃいないよな。不確かな日々に潜んだ確かな今を生きていく。今を重ねて人生とする。

 

コンサートに行って私は毎回救われていて、毎日をちゃんと生きようなんて思う。

ありがとう、皆々様。

 

おっしまい。

 

おセンチもん